「むろや」について

むろや(室屋)という屋号の由来について

現在ある当店の場所を、江戸時代(約250年前の宝暦年間)の絵地図(新熊本市史絵図編)で見ますと、「宝屋」と表記されています。これは明らかに見間違えで、正しくは「室屋」です。

 

 

その絵地図によると、「室屋善次郎」とその西側30mの場所「室屋弥兵衛(やへい、やひょうえ)」の2ヶ所が記録されてあります。

更に地図を詳しく見ると、それぞれ一軒の店で、善次郎の店は間口2間半(4.5m)と2間半(4.5m)の計5間(9m)の2区画あり、また弥兵衛の店は、間口2間(3.6m)と4間半(8.1m)の計6間半(11.7m)の2区画があります。

過去帳から判断すると、弥兵衛が善次郎よりも年上で、弥兵衛の店は善次郎の店より間口が3割程度広く、善次郎の店(現在地)は角地のため立地が良いと言えます。

どちらの店も広い意味では醸造業を営んでいたようです。そのため、麹室(こうじむろ)の室(むろ)から「室屋」と言われるようになったようです。
つまり、「室屋」は麹を作る麹屋(こうじや)か、味噌、醤油の製造・卸・販売をやっていた味噌・醤油屋と思われます。
※大分県の中津市には、「むろや醤油」という名前で現在も営業されているお店がございます。

当店は、皆さんに親しみやすく、判りやすいという意味から、ひらがなの「むろや」を使っています。
 

「室(むろ)」の本来の意味

室とは、「家の奥に設けた土を塗り込めて寝室などとした所。物を入れて置いて暖め、または外気に触れないように特別な構造をした所」とあり、「室」を使った例として、氷室(ひむろ)、麹(こうじむろ)等があります。氷にしても麹にしても、「温度、湿度を一定に保ち、その物を管理保管する施設(家)」のようです。
 

室屋(むろや)の詳細について

江戸時代熊本の城下町、新町の町屋(まちや)を描いたものとして、現存する唯一の地図(新熊本市史の別冊:中世・近世絵図は192ページ、解説文は243ページ)があります。
当店は、今も現在地(昔のままの場所)で、営業致しております。
その地図を見ますと、「室屋(むろや)」ではなく、「宝屋(たからや)」と活字化されていますが、これは明らかな間違いで、「室屋」が正しいものです。

 

 

そのことを検証するため、この地図(写本)を所有しておられるT氏(熊本市在住)のお宅に専門家と共に伺い、その該当部分を撮影してきました。(写真A)
また、市史を活字化される編集作業において、担当の方が「室」と「宝」を見間違えられてもやむを得ないものだったようです。

念のために、その地図に表記がある2名の名前を、むろやの先代である荒井源一郎が生前調べた過去帳(現在ある墓石を含む)と照合いたしました。
地図には、室屋弥兵衛(※1)と室屋善次郎(※2)という記載があります。この絵地図の作成は、宝暦12年~寛政3年(1762年~1791年)と推定されます。

また過去帳には、下記と記されてあります。

○弥兵衛:法名-教意、76歳、元禄9年~安永2年(1696年~1773年)
○善次郎:法名-道善、57歳、寛政5年(1793年死去)
○善次良:法名-教寛、57歳、寛政6年(1823年死去)

過去帳には、善次郎の子ども、荻露童子3歳(俗名不明、宝暦12月7日死去)と記されてあり、墓石には、善次郎:寛政五癸丑年釈妙清信女/荻露童子宝暦十二壬午七月四日と、3名の法名と死亡年月日が刻んであります。

このことから、絵地図の氏名と過去帳の氏名が一致し、実在したことが証明されますし、また、過去帳と墓石の記載においても、一致が見られました。

今回の調査で、現在のところ6代前まで遡っていくことができました。 私(むろや店主)も、江戸時代中期の町人の暮らしがどのようなものであったか興味があるところでもありますし、今後「永青文庫(細川家の古文書他)」の研究が進むことを期待したいと思います。

平成20年5月吉日 むろや店主 荒井正俊